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人生は旅だから、歩き続けよう 自分の始まりとこれからを受け入れる方法

これからも歩き続ける


人生という旅

人生はよく旅に例えられます。
松尾芭蕉は「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」
と『奥の細道』の序文で書いています。時間そのものが永遠の旅人なのですから、
生きているわたしたちはみんな旅をしています。


始まりは変えられない

人はいつかその旅が終わることを意識しています。
だから、あせったり、あがいたりします。
振り返って、後悔したり、先を見て、絶望したりします。


これからは変えられる

人は自分の始まりを変えることはできません。
ああ、もっといい境遇で生まれたかった。
ああ、もっと平和な時代に生きたかった。

人は自分のこれからを決めることができます。
うん、もっといい暮らしをしよう。
うん、もっと自分を広げよう。


人生の旅は一人ではできない

自分に変えられないものは神様が与えられました。
だから、自分のこれからも、本当は自分ひとりで切り開いていくのではありません。
もし、自分がそうするんだ、と言うのなら、たぶん限界があなたをさえぎるでしょう。
人は不完全で、一人では完結していないのですから。

神様が作られたものには無限の可能性があります。
だから、わたしはそこに自分をゆだねるのです。
これからも歩き続けるために。




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