「純文学」とは何か? 日本独自の文学観を考える
日本文学において、「純文学」という言葉は特別な響きを持っています。 海外ではほとんど使われないこの分類は、いったい何を意味するのでしょうか?
辞書が語る「純文学」の定義
デジタル大辞泉では、こう説明されています。
「大衆文学に対して、純粋な芸術性を目的とする文学」
ウィキペディアでもほぼ同じ趣旨で、
「大衆小説に対して『娯楽性』よりも『芸術性』に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語」
とされています。
小説はもともと「大衆の娯楽」だった
日本は江戸時代から比較的高い識字率を誇り、 読本・草双紙・滑稽本など、大衆が楽しむための物語が花開きました。
明治以降も、新聞小説という形で小説は一般の人々に親しまれてきました。 その代表例が、夏目漱石の『吾輩は猫である』です。
当時は新聞連載で多くの読者を楽しませた、まさに大衆娯楽の傑作でした
では「芸術性」とは具体的に何なのか?
文豪たちの言葉に耳を傾けてみましょう。
芥川龍之介の視点
「小説はあらゆる文芸中、最も非芸術的なものと心得べし。文芸中の文芸は詩あるのみ」 ― 『小説作法十則』
芥川にとって、芸術的な小説とは詩的な言葉の響き・美しさを持つものでした。
横光利一の「純粋小説論」
「純文学とは偶然を廃すること」「通俗小説のように感傷性のないこと」 しかし最終的には 「通俗小説と純文学とを一つにしたもの、このものこそ今後の文学だ」
現代の現場が考える「純文学」の基準
現在、最も現実的な定義はこれです。
「文芸誌に載った小説作品がすなわち純文学である」 ― 作家・鴻池留衣
そして「芥川賞受賞作=純文学」という認識は、ほぼ定着しています。
結 論
純文学と大衆文学を無理に分ける必要はないのかもしれません。 なぜなら、日本文学のDNAの中には、 「娯楽」と「芸術」が共存してきた長い歴史があるからです。
言葉の美しさに静かに酔いたいとき、 心の奥底を覗き込みたいとき、 そんなときにこそ、手に取るのが「純文学」なのかもしれません。
あなたにとっての「純文学」とは、どんな小説ですか?
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