「純文学」の定義
小説を分類するのに、「純文学」という言い方があります。これは日本独特のとらえ方のようです。では、「純文学」とはどういう小説のことでしょうか。
辞書には次のような説明があります。
【大衆文学に対して、純粋な芸術性を目的とする文学】-デジタル大辞泉
ウィキペディアには
【純文学(じゅんぶんがく)は、大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語】と説明されています。
デジタル大辞泉の定義によれば、小説だけではなく、詩、戯曲、随筆なども含まれるはずですが、ここでは小説に焦点を絞って考えてみましょう。
小説は元々大衆の娯楽
まず、純文学と比較対照されているのが、大衆文学であるのは興味深いことです。昔から比較的識字率の高かった我が国では、小説は大衆的なものだからです。ですから、現在のわたしたちが、「純文学」だと思っている作家の作品、たとえば夏目漱石の「吾輩は猫である」などは、多分に大衆に好まれる娯楽性を十分に持ち合わせているのです。
芸術性とは
では、本来大衆に娯楽を提供する目的で発展してきた小説が「芸術性」に重きを置くとは、どういうことなのでしょうか。
作家が何と述べているのかに注目してみましょう。
芥川龍之介は、「純文学」という言い方をしていません。『小説作法十則』という随筆で、
【小説はあらゆる文芸中、最も非芸術的なものと心得べし。文芸中の文芸は詩あるのみ】と述べています。つまり、詩的な響き、美しさを持っていれば、芸術的な小説であると考えていたわけです。
横光利一は『純粋小説論』のなかで、【純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学とは通俗小説のように感傷性のないこと】と言われているが【通俗小説と純文学とを一つにしたもの、このものこそ今後の文学だ】と述べています。そして、例としてトルストイ、スタンダール、バルザックといった大家をあげています。彼らの作品には偶然性が多いが、リアリティもあると評しています。
現代的な見方
商業的な観点から純文学をとらえている作家もご紹介しましょう。【「純文学」とは何かを定義する際、「文芸誌に載った小説作品がすなわち純文学である」とする見方が、現場に携わる人たちの間で現在最も一般的だからです。小説には、エンターテインメントやライトノベルなど、読者の嗜好に合わせて様々なジャンルの棲み分けが存在しています。純文学と他ジャンルとの区別の指針として、文芸誌という、初出の発表媒体による基準があるということです】 https://x.gd/skjuB
と鴻池留衣は書いています。厳密には、文芸誌の現場にいる人たちの一般的な見方だという書き方ですが、【芥川賞受賞作を指して、これは「純文学である」と言い切って差し支えない】とも後述しています。もともと、純文学と大衆文学の違いは明確ではないので、掲載誌で見分けるというのは、確かに一理あるでしょう。
作家の心持ち
わたしは、純文学と大衆小説を無理に分ける必要はないだろうと考えています。それは、最初にも述べましたが、小説というものが、日本ではもともと大衆の娯楽のために書かれていたからです。物語、伝記、歴史、写生している小説で、美しくて詩的な要素を持つものが芸術的であるとする芥川の意見に概ね同意します。なぜなら、実作者がそのような心持ちで小説を書いているという事実は動かしがたいからです。ですから、今現在、作家たちが、掲載誌や賞のために作風を考える。これも現実なら、受け入れるしかないのでしょう。
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