如是我聞とは
1948 雑誌「新潮」に4回にわたって掲載された太宰治の最後の随筆。
如是我聞は【にょぜがもん】と読みます。
太宰治は1909年(明治42年)6月19日生まれ。1948年(昭和23年)6月13日38歳で死去。
本作は6月5日に第4部が筆記されました。最終行で「いくらでも書くつもり」と結んでいるので、まだまだ書く意欲はあったことは明らかです。未完成の遺稿となりました。
本作の意義
志賀直哉に対する反論と批判がかなり強い調子で書かれています。さらに、実名こそ挙げられていませんが、彼の作品を批判していた他の作家・文学者たちへの辛辣な批判はかなり強烈で、病的にすら感じられます。ただ、その中で太宰が小説家として何を目指していたのかも明らかにされています。全体的に怒りに満ちていますが、かなり具体例を挙げての反論・批判ですので、別れを暗示させる響きはありません。太宰が目指していたものは何か。それを考察してみましょう。
第1部
『自分は、この十年間、腹が立っても、抑えに抑えていたことを、これから毎月、この雑誌(新潮)に、どんなに人からそのために、不愉快がられても、書いて行かなければならぬ、そのような、自分の意思によらぬ「時期」がいよいよ来たようなので、様々の縁故にもお許しをねがい、或いは義絶も思い設け、こんなことは大袈裟とか、或いは気障とか言われ、あの者たちに、顰蹙せられるのは承知の上で、つまり、自分の抗議を書いてみるつもりなのである。』
これまで10年間、我慢してきたことを書いていくという決意表明です。「義絶も思い設け」という所が引っ掛かります。師である井伏鱒二と関係を絶つ可能性を予見しているようです。
第2部
冒頭で太宰は聖書のマタイ23章4節から15節を引用しています。イエス・キリストが偽善者である律法学者とパリサイ人たちを強く断罪している部分です。太宰を面と向かってはほめるのに、雑誌などでは心なく批判し、こき下ろす文学者たちが、偽善者である語学教師であると断罪しているのです。その中で、太宰は
『文学に於て、最も大事なものは「心づくし」というものである』
と述べています。それは、『料理人の心のこもった料理』のようであり、それがうれしいし、おいしいのだと論じています。太宰は、小説を書いて、読者にその「心づくし」を伝えたかったのです。そして、これからそんな作品をもっと書きたかったのでしょう。
第3部
『私がこの如是我聞という世間的に言って、明らかに愚挙らしい事を書いて発表しているのは、何も「個人」を攻撃するためではなくて、反キリスト的なものへの戦いなのである。』
と太宰はこの連載の目的を言い切っています。これは、決してキリスト教を擁護しようとしているのではありません。むしろ「反キリスト的なもの」と表現しているように、キリストが教えられた無私の愛というものが、太宰を軽々しく批判するものたちには、かけらもないことを明らかにしようとしているのです。そして、年長者が若い人々に隷従を求めるような時代は終わらせなければならないという決意でしょう。それが第1部でもふれられていた「自分の意思によらぬ「時期」がいよいよ来た」ということなのでしょう。
第4部
『今月は、この男(志賀直哉)のことについて、手加減もせずに、暴露してみるつもりである。』
この第4部では、冒頭で志賀直哉の名前を挙げているので、容赦なく、具体的に志賀直哉の作品を批判しています。一例として
『この者は人間の弱さを軽蔑している。自分に金のあるのを誇っている。「小僧の神様」という短篇があるようだが、その貧しき者への残酷さに自身気がついているだろうかどうか。ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、苦痛なものである。何が神様だ。その神経は、まるで新興成金そっくりではないか。』
と志賀直哉の代表作である「小僧の神様」を批判しています。ここで太宰は小説の技法とかプロットを批判しているのではなく、志賀直哉が登場人物を通して、貧しいものを軽蔑しているように感じたゆえに非難しているのです。つまり、作品そのものではなく、志賀直哉の考え方を問題視している訳です。
これ以外にも、太宰は「うさぎ」の言葉遣い、「雨蛙」の落ち、「暗夜行路」の題が不適切であることなど、多くの例を挙げて非難しています。これ以上、ここでは詳しく述べませんが、志賀直哉が太宰を批判した言葉から具体的に切り返していることに、凄まじさを感じます。
ここまで辛辣に書くと、当然太宰の人間性、病的な部分が浮き彫りになってしまいますが、太宰と彼を取り巻く当時の環境を理解するには、必読と言えるでしょう。
青空文庫に収められているので、「如是我聞」はだれでも無料で読むことが出来ます。
『』内は「如是我聞」からの引用です。
参考
太宰治「如是我聞」注釈(一)
◆書誌解題◆28如是我聞
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