「小説」は「大説」との比較から来ている 小説を純文学と通俗小説に分けると、その字面から、最初は純文学が中心で、その後通俗小説が発達したかに思えるかもしれません。でも、そもそも「小説」という言葉は「大説」との比較から出てきた漢語です。「大説」とは、天下・国家を論ずる書のことです。それと対比して、日常の事柄を書いた日記・物語・虚構を「小説」と言いました。 本質は娯楽 竹取物語から始まる日本のフィクションですが、やはり娯楽としての物語でしょう。江戸時代には、庶民も読本などの戯作を読むようになります。そこから、現代の小説につながって来ます。この流れからすると、「純文学」はどこから来たのでしょうか。おそらく、江戸時代に戯作が流行っていたことからすれば、小説とは本来娯楽のために書かれる文章であると考えられます。つまり、芸術性ではなく、売れるかどうかが大事だったわけです。そう考えると、小説をめぐる事情というのは、江戸から現在に至るまで、大きな流れは変わっていないのです。「純文学」という芸術性を重んじる小説が一つのカテゴリーとして存在するようになったのは、それを評価して、お金を出す人が一定数存在するようになったからでしょう。 今後の小説の可能性 これからの「小説」にはどのような変化が考えられるでしょうか。すでに、小説・アニメ・映画・ドラマ・音楽などがストーリーを共有することによって、娯楽をよく多くの人に提供しています。ここでも、純文学と通俗小説を分ける必要はあまり感じられません。どんな内容でもいいのですが、もっと文章・画像・映像・音声を組み合わせた「小説」があってもいいのではないでしょうか。内容を重視するのなら、縦書きとか、文章のみといったルールにこだわる必要は全くないでしょう。ある小説をもとにして映画を作るという型は確立していますが、一つの作品、たとえば電子書籍のなかに、文章・映像・音声・音楽が混在しているというものがあってもいいだろうと思います。 実は、「大説」と「小説」という括りは鴻池留依さんと松波太郎さんの対談で語られていました。( こちら です) そこから、「小説」という言い方が始まったことは、実は今の今まで知りませんでした。その中で、松波太郎さんが、文字は元々絵文字、象形文字でイラストだったのだから、小説の中身が動いたり、踊ったりしたら読みやすいですよ、と言っ...