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10月, 2022の投稿を表示しています

小説とは本来、娯楽である

「小説」は「大説」との比較から来ている  小説を純文学と通俗小説に分けると、その字面から、最初は純文学が中心で、その後通俗小説が発達したかに思えるかもしれません。でも、そもそも「小説」という言葉は「大説」との比較から出てきた漢語です。「大説」とは、天下・国家を論ずる書のことです。それと対比して、日常の事柄を書いた日記・物語・虚構を「小説」と言いました。 本質は娯楽   竹取物語から始まる日本のフィクションですが、やはり娯楽としての物語でしょう。江戸時代には、庶民も読本などの戯作を読むようになります。そこから、現代の小説につながって来ます。この流れからすると、「純文学」はどこから来たのでしょうか。おそらく、江戸時代に戯作が流行っていたことからすれば、小説とは本来娯楽のために書かれる文章であると考えられます。つまり、芸術性ではなく、売れるかどうかが大事だったわけです。そう考えると、小説をめぐる事情というのは、江戸から現在に至るまで、大きな流れは変わっていないのです。「純文学」という芸術性を重んじる小説が一つのカテゴリーとして存在するようになったのは、それを評価して、お金を出す人が一定数存在するようになったからでしょう。 今後の小説の可能性  これからの「小説」にはどのような変化が考えられるでしょうか。すでに、小説・アニメ・映画・ドラマ・音楽などがストーリーを共有することによって、娯楽をよく多くの人に提供しています。ここでも、純文学と通俗小説を分ける必要はあまり感じられません。どんな内容でもいいのですが、もっと文章・画像・映像・音声を組み合わせた「小説」があってもいいのではないでしょうか。内容を重視するのなら、縦書きとか、文章のみといったルールにこだわる必要は全くないでしょう。ある小説をもとにして映画を作るという型は確立していますが、一つの作品、たとえば電子書籍のなかに、文章・映像・音声・音楽が混在しているというものがあってもいいだろうと思います。  実は、「大説」と「小説」という括りは鴻池留依さんと松波太郎さんの対談で語られていました。( こちら です) そこから、「小説」という言い方が始まったことは、実は今の今まで知りませんでした。その中で、松波太郎さんが、文字は元々絵文字、象形文字でイラストだったのだから、小説の中身が動いたり、踊ったりしたら読みやすいですよ、と言っ...

純文学とは何か

「純文学」の定義 小説を分類するのに、「純文学」という言い方があります。これは日本独特のとらえ方のようです。では、「純文学」とはどういう小説のことでしょうか。 辞書には次のような説明があります。 【 大衆文学に対して、純粋な芸術性を目的とする文学 】-デジタル大辞泉 ウィキペディアには 【 純文学(じゅんぶんがく)は、大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語 】と説明されています。 デジタル大辞泉の定義によれば、小説だけではなく、詩、戯曲、随筆なども含まれるはずですが、ここでは小説に焦点を絞って考えてみましょう。 小説は元々大衆の娯楽 まず、純文学と比較対照されているのが、大衆文学であるのは興味深いことです。昔から比較的識字率の高かった我が国では、小説は大衆的なものだからです。ですから、現在のわたしたちが、「純文学」だと思っている作家の作品、たとえば夏目漱石の「吾輩は猫である」などは、多分に大衆に好まれる娯楽性を十分に持ち合わせているのです。 芸術性とは では、本来大衆に娯楽を提供する目的で発展してきた小説が 「芸術性」に重きを置く とは、どういうことなのでしょうか。 作家が何と述べているのかに注目してみましょう。 芥川龍之介は、「純文学」という言い方をしていません。『小説作法十則』という随筆で、 【小説はあらゆる文芸中、最も非芸術的なものと心得べし。文芸中の文芸は詩あるのみ】と述べています。つまり、詩的な響き、美しさを持っていれば、芸術的な小説であると考えていたわけです。 横光利一は『純粋小説論』のなかで、【純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学とは通俗小説のように感傷性のないこと】と言われているが【通俗小説と純文学とを一つにしたもの、このものこそ今後の文学だ】と述べています。そして、例としてトルストイ、スタンダール、バルザックといった大家をあげています。彼らの作品には偶然性が多いが、リアリティもあると評しています。 現代的な見方 商業的な観点から純文学をとらえている作家もご紹介しましょう。 【「純文学」とは何かを定義する際、「文芸誌に載った小説作品がすなわち純文学である」とする見方が、現場に携わる人たちの間で現在最も一般的だからです。小説には、エンターテインメントやライトノベルなど、読者の嗜好に合わせ...

感謝できることを書き出してみると、不満や怒りは小さくなる

感謝できることをリストにする 最近、 「感謝できることを探して、書き出してみて下さい」 という提案をある方からいただきました。感謝できることを書き出していくと、その気持ちがあふれるようになるからだそうです。自分はそこそこ感謝の念のある者だと思っていましたが、実際に書き出してみると、思っていたほど、これまでは感謝を言い表していなかったことに気付きました。やはり、書き出すことの直接的な効果は「そのことを考えて、探すようになる」ことでしょう。つまり、今までは感謝したつもりになっていましたが、感謝できる理由を探してはいませんでした。そして、感謝していることを具体的に言語化していなかったという訳です。 画像引用 https://www.photo-ac.com/profile/847939 書き出していくと、自分の見方が変わっていく ささやかなことですが、感謝できることを探して書き留めていくと、 考え方がかなり積極的になります 。例えば、10/3にこんなことを書き留めています。【妻ががいつもより早く起きて、サンドイッチを作ってくれた】翌日10/4は 、【今朝は妻がゆっくり寝ていたので、考える時間が取れた。どちらが生じてもその利点に注意を向ければ感謝できることに気付けた】 こんな具合に、物事には感謝できる要素がたいていあるということに気付けます。ふつうは「今朝は妻が起きてこなかった。なんてこった」と否定的な見方になりがちですが、自分が考える時間を取れたと感謝できる側面に注意を向けられるのです。感謝と不満は表裏一体ですね。 感謝の気持ちが大きくなれば、不満や怒りは小さくなります。 相手にも伝わる 感謝リストを作り出したら、ものの見方がよくなったよ、と妻に話しました。そして、上の例を話すと笑いながらも「なるほどねえ」と感心していました。そして「わたしも感謝リストを作ろっ」と言いました。感謝の気持ちを具体的に表すと、相手にも伝わります。妻も前より明るくなったような気がします。 感謝リストを作ってみませんか ささいなことで「ありがとう」と言うのが、気恥ずかしく感じるかもしれません。でも、わたしたちは感謝すべきことに囲まれているのです。命をいただいたというような根源的なことはもちろんですが、きょうはこんなミスをしてしまった。もう少し注意深くなければいけないという教訓を学べた。これ...

プラトニックラブ コレクション 武岡瑞樹

                              delo による Pixabay からの画像 プラトニックラブ コレクションは4作からなる短編小説集。巻頭が「図書館のアリスさん」です。 著者のプロフィール 武岡瑞樹 1994/4/21生まれ 28歳 三重県出身 図書館のアリスさん あらすじ  私立の図書館に勤務することになった竹崎悠馬が主人公です。無表情で黙々と仕事をする有栖川春香さんが悠馬の指導をすることになります。彼女はアリスと呼ばれています。悠馬はアリスの心を開こうと、いろいろ試みますが、彼女はビジネスライクな接し方を変えようとはしません。悠馬もアリスの心をこじ開けようとはせず、不器用だが、まじめに仕事に取り組んでいきます。仕事に慣れるにつれ、アリスにも苦手な分野があることに、悠馬は気付きます。少しずつ悠馬はアリスを励ましていきます。ある日、アリスを罵倒するクレイマーの男が現れます。悠馬が助けに行くと、男は立ち去ります。その後も男は悠馬や他の男性職員がいないタイミングを見計らってアリスを攻撃します。そこで悠馬はある計略を思い付きます。 画像引用:illustACより https://x.gd/8mLMI コメント  素朴な設定とプロットで、現実にありそうなお話です。奇想天外な出だしや現実に有り得ない話も悪くないですが、このようなどこにでもありそうな話は、やはり安心して読めます。不器用なふたりが出会ってから好意を確かめ合うまでを4つの章に分けて組み立てています。  あとがきや解説がありませんので、わたしの憶測ですが、悠馬は作者の分身のような気がします。主人公である悠馬の淡い好意がなかなか実を結ばないのですが、少しずつアリスの心が解きほぐされている様子が、上手に表現されています。彼女が弱気を見せて、固くなっているところで、調子に乗らず淡々と二人でひとつのことを成し遂げます。最後の場面でも、作者はすぐにハッピーエンドにしません。アリスは無表情で機械的に返答していますが、そのあとようやく読者の期待に応えます。読んでいるわたしは不器用でまじめな悠馬が「やったー!」と跳びあがってもおかしくないと思いましたが、抑えた表現での結末は見事でした。 Kindle Unlimited なら無料で読めます。

散文の基本 阿部昭

著者プロフィール 阿部昭 (1934-1989) 短編小説の名手と呼ばれています。 私小説を多く残しています。エッセイなどもなかなか読みごたえがあります。 芥川賞の候補になること6回。最多記録です。受賞こそしなかったものの、作家として高く評価されています。 「散文の基本」の紹介 1981年福武書店発行 短編小説や書くことに関するエッセイ集。散文を書くための技術的なことと言うより、短編小説の魅力や散文を書くための心構えなどを実例も含めながら綴っています。わたしは、この本を1984/10/26に購入しました。サイン本です。しっかりとした楷書の署名が記されています。著者にお会いしたことはありませんが、その書体からは律義でまじめな人柄が伺えます。 主な見どころ 小説は楽しみのために書くもの読むもの 小説とはどういうものか、阿部昭の説明は明快です。 書くということが問われるたびに、いつも見落とされがちなのは、端的に小説なら小説を書くよろこび、あるいは単純に文章を書きたくなる気分、といったものである。p15 「書くということ」より  「文学」というとものものしく聞えるが、小説は楽しみに読むものである。書く上での苦労も、楽しく読んでもらいたいからこそである。p30 「笑いたい」から  単純明快ですね。書き手は文章でも小説でも、書きたいことを書けば良いし、読者はおもしろい、楽しいから読むのです。だから、書き手も読み手も、楽しい、おもしろい、感動するといった一見陳腐に思えるようなことを大切にしたほうがいい。実際、文章で人を笑わせるということは、思っているほど簡単ではありません。対面で話している時は、話の内容だけでなく、その人の表情とか身振りなども笑いを誘いますが、文章には、そのような視覚的な要素がないからです。そういう意味で、阿部は夏目漱石の「坊ちゃん」や太宰治の「新釈諸国噺」をユーモア小説として高く評価しています。太宰自身は小説の基本は「心づくし」だと遺稿「如是我聞」の中で書いています。笑いや涙を誘うような散文を書くには、読者に楽しんでいただきたい、感動してもらいたいという気持ちが不可欠だということです。 2022/9に 「私の文章作法」「短篇小説論」を中心に日本語論、自作解説を増補した新編集版が発売されました。

小説家になるための教科書 小狐裕介 簡潔で明快

Monfocus による Pixabay からの画像   2020年12月30日第一刷発行 著者プロフィール  2017年「ふしぎな駄菓子屋」で作家デビュー 多数のショートショートを執筆。 人の温かさを伝えることをテーマとしている。 この本の要約 「小説の書き方」は教えることができません。面白い小説を書くには「書く」しかありません。つまり、下手でもなんでもいいので、とにかく書きなさい。書くことで、うまくなり面白い小説になっていきます。同時に、できることは「小説を読む」ことです。面白いと思ったら、この小説はなぜ面白いのかを考え、それを自分の創作に役立てるのです。小説をひたすら「書く」そして小説を上手に書くためにプロの書いた小説を「読む」。この二つをひたすら繰り返す。これだけです。 簡潔で、明快 これまで「小説の書き方」を教える本を何冊か読んできました。その中で、本作は最も簡潔で、明快です。小狐さんがショートショート作家であるということも関係しているでしょう。小説家を目指す人に大いに役立つはずです。方法論については、わかつきひかるさんの「人生経験を生かして小説家になろう!」がとても具体的で参考になります。 小説らしきものは書けるはず 自分は小説を読んだり、紹介したりするのは好きですが、これまで小説らしきものを書いたことは一度もありません。小説は物語とも言えますが、人は自分の想像で勝手に話を作ることがあるので、きっかけとかやる気があれば、小説のひとつくらいは書けるのではないかなと常々思っています。と言いつつ、まだ何も書いていないのですが、とりあえず小説家が「小説の書き方」について何と言っているのか知りたくなったのです。 著者の小狐裕介さんはショートショート作家です。前書きにあるように、この本は「小説を書く方法」は解説していません。理由は「小説の書き方」は教えられないからです。むしろ、「小説家を目指す上での心構え」のようなマインドが大切だと説いています。 確かにそうでしょうね。手取り足取り教えて身に付く技術とは明らかにちがうものでしょう。ですから、簡単そうに見えて、やはりかなり高度な知的作業なのだろうと考えてしまいます。このように、書く前から自分でハードルをあげてしまうと、何も書かないで時が過ぎていきます。 プロになれるかどうかではなく書くか書かないかだ 小説らしき...