1987年(昭和62年)発表の短編小説
あらすじ
北陸の旅館のおかみが語り手となっています。
三月下旬のある日、母親と息子が泊まりに来ます。はるばる青森からです。二人の様子から死に場所を求めてやって来たのではないかと女中は推測します。
翌日、親子は外出します。日暮前に戻ってくると、息子は頭を剃り、お坊さんになる修行に入ることが明らかになります。住職である父親が交通事故で亡くなり、15歳の息子が跡を継がなければならないからです。親子が共に食事ができる最後の晩に、「なにがお好きかしら」とおかみが尋ねます。母親は即座に「とんかつにして頂きゃんす」と答えます。5年間は会わないつもりです、と母親は言っていたが、一年後に再び母親が現れます。
三月下旬のある日、母親と息子が泊まりに来ます。はるばる青森からです。二人の様子から死に場所を求めてやって来たのではないかと女中は推測します。
翌日、親子は外出します。日暮前に戻ってくると、息子は頭を剃り、お坊さんになる修行に入ることが明らかになります。住職である父親が交通事故で亡くなり、15歳の息子が跡を継がなければならないからです。親子が共に食事ができる最後の晩に、「なにがお好きかしら」とおかみが尋ねます。母親は即座に「とんかつにして頂きゃんす」と答えます。5年間は会わないつもりです、と母親は言っていたが、一年後に再び母親が現れます。
見どころ
単行本で8ページの短編小説です。出だしで母親と息子の様子が謎めいていて、読者の興味をかき立てます。作者は巧みに説明を省いているために、読者は自分でいろいろと想像をふくらませながら、読み進めることができます。謎の提示と巧みな省略が小説としての型をしっかりと持たせています。
例えば、主題である「とんかつ」がなかなか登場しません。これから、5年も会えないなら、ご馳走にしましょうということになり、ついに「とんかつ」が出てきます。これが単に息子の好物であるというだけではありません。
例えば、主題である「とんかつ」がなかなか登場しません。これから、5年も会えないなら、ご馳走にしましょうということになり、ついに「とんかつ」が出てきます。これが単に息子の好物であるというだけではありません。
語り手がどんな女性であるかがほとんど描写されていません。つまり、宿の主であろうということはわかりますが、女性であるという外見の説明がないのです。むしろ、話し方から思慮深い女性であろうと思わせます。女中が話の途中で「奥さん」と呼び掛けているので、おかみであることはわかります。そして、「なにがお好きかしら。」、「なにをお出しすればいいのかしら。」というような短くて、相手の気持ちを引き出すような問いかけ方が巧みです。つまり、作者はおかみの発した言葉だけでその人となりを表現しているのです。
一方、母親と息子については、外見についても最低限の描写をしていますし、名前も挙げています。つまり、語り手のおかみは作者の分身であり、母親と息子の外見よりも内面の動きに注目していることが読み取れるのです。
いろいろな読み方があっていい
教科書に採用されているためか、いろいろな解釈があって興味深いです。上記のように、わたしは本作は短編小説の型をしっかり押さえていると感じました。ただ、そこに作者の価値観も自然な形で表現されていて、押しつけがましくありません。ですから、いたずらにこう読み取るべきであるというような講釈は必要としません。いろいろな読み方、感じ方があっていいのではないでしょうか。
個人的には、外見の変化と戒律では御することのできない内面の変わらない部分が混在しているのが、人間の本当の姿なのだということを示す短い締めくくりの妙が鮮やかに感じました。
個人的には、外見の変化と戒律では御することのできない内面の変わらない部分が混在しているのが、人間の本当の姿なのだということを示す短い締めくくりの妙が鮮やかに感じました。
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