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おすすめの短編小説- 或る「小倉日記」伝 松本清張

1952年の作品です。芥川賞受賞。松本清張は幼少期から福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区に住んでいました。森鷗外が軍医として小倉にいた3年間の日記「小倉日記」の行方を探すことに生涯を捧げた人物を描いた短編小説です。この作品の前に発表された「西郷札」が直木賞の候補となりました。その翌年に書かれた作品。

あらすじ

1938年(昭和13年)から1950(昭和25)の出来事です。主人公の田上耕作(たがみこうさく)は生まれつきの障害で片足が麻痺しており、言葉がうまくしゃべれません。ただ知的には優秀です。彼の祖父が建てた貸し家には貧しい一家が住んでいて、そこのおじいさんは伝便(でんびん)を仕事にしていました。伝便とは手紙や小荷物を運ぶ使い走りのような仕事でした。耕作は朝おじいさんの鳴らす鈴の音を、何かはかない気持ちで聴いていました。

耕作は、ある日森鷗外の作品『独身』を読み感動します。なつかしい伝便のことが書かれていたからです。耕作は生涯ふつうの仕事にはつけませんでした。母親の裁縫と家賃収入で暮らしていました。しかし、友人である江南(えなみ)のつてで蔵書の目録作りを耕作は手伝うことになります。そんな日々に耕作は、森鷗外が小倉での三年間の日記、『小倉日記』を補完することを思いつきます。『独身』、『鶏』、『二人の友』などの作品から小倉での鷗外の足どりを推測し、ゆかりの人物を取材していくのです。不自由な体でようやくたどり着いても門前払いにあいます。仕方なく翌日母ともう一度訪れるという経験をします。「こんなことに意義はあるだろうか」という思いが彼を苦しめます。さらに、戦争が耕作の前に立ちふさがります。耕作の麻痺は日に日に進んでいたのですが、戦後は食糧不足でさらに悪化し、ついには寝たきりになってしまいます。母も年をとりましたが耕作を看病します。耕作の希望の源は風呂敷一杯になっている、彼のあつめた「小倉日記」です。さらに衰弱した耕作が聴いた音は・・・・

耕作は麻痺した体にもめげず、鷗外の知られざる部分を掘り起こしていきます。清張が郷土史ともいえる題材を小説に仕上げる努力とだぶって見えます。

著者・松本清張について

自己の体験・歴史・社会・推理という要素を折り重ねている作品が多数あります。清張は生活苦の中、多くの作家の小説を読みましたが、芥川龍之介・田山花袋・江戸川乱歩らの影響を強く受けています。歴史や社会のなぞに斬り込んでいくという姿勢がいろいろな作品に見られます。能力はあっても、学歴などで埋もれていた時期に、今に見ていろよという意気で猛勉強していたのでしょう。文章や文体よりも、よく知られた史実や一般的な事実の背後に読者の注意を引く、そんな作家です。かなりの作品がドラマ・映画化されています。しかも、何度もリメイクされています。書かれた当時の生活や文化を知らないと理解が難しくなっている部分もありますが、人間の本質に迫っている作品が多いので、これからも読み継がれていくでしょう。 


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