「師・井伏鱒二の思い出」は小説家・三浦哲郎による随筆。2010年8月三浦哲郎が亡くなったのち、新潮社より単行本として刊行されました。初出は1996年から2000年にかけて刊行された井伏鱒二全集の月報(全16回)です。
あらまし
三浦哲郎が井伏鱒二に師事するようになったいきさつ
小説の習作から芥川賞を取るまでに井伏がどのように三浦を鼓舞したのか
文壇、将棋、人付き合いにおける師の振る舞いと温かい交流
師の絵画や書について
などが優しくそして温かい文章で綴られています。
作家では太宰治、川端康成、松本清張。将棋界では大山康晴名人、加藤一二三九段にまつわるエピソードが優しい文で書かれています。三浦は師・井伏と周囲の人々への思いやりに満ちていたことがよくわかります。
見どころ
三浦が早稲田に再入学し、同人誌に「遺書について」という習作を発表しました。井伏はそれを読み、書き手に会ってみたいと言ったのが、師事するきっかけになりました。昭和30年6月のことです。荻窪に住む井伏を三浦は訪ねます。井伏は三浦の作品を激賞し、君の書いたものを読んだら自分にもまた書く気力が湧いてきたと言います。そして、しばらくすると、井伏は太宰のことを思い出します。そのくだりはこうです。
「太宰はよかったなあ。」と先生は、暗くなった庭へ目をしばたたきながらいわれる。「ちょうど今時刻、縁側から今晩はぁとやってくるんだ。竹を割ったような気持ちのいい性格でね。・・・生きてりゃよかったのに・・・」太宰さんの思い出を語られる先生のお言葉の一つ一つに、深い愛情が感じられて心を打たれた。
太宰が亡くなったのは昭和23年ですから、この文章に書かれていることは、その7年後のことになります。もし、太宰が健在だったら、同郷(太宰、三浦ともに青森出身)の兄弟子として、ここにいたのにというふたりの無念が伝わってきます。三浦哲郎の文章は、このような感情を伝えるような内容でも、極力そのような表現を用いないで、読者に気持ちを伝えるという点で、卓越した書き手です。短い文章でも内容は言い尽くされているような読後感があります。
井伏は、定期的に訪れる三浦にいろいろなことを雑談しながら教えたようです。
先生は、厭な顔一つなさらずに、問わず語りにいろいろなことを話してくださった。先生の座談はまことに面白かったが、私はただうっとりと聞き惚れてばかりもいられなかった。その座談のところどころに、たとえば、「毎日、すこしずつでも書いてるといいね。太宰なんか、元日にも書いてたな。」
もちろん、手取り足取り教えたりはしないのですが、小説家になるために必要なことをさりげなく語っていたのでしょう。そして、そこにやはり太宰の名が出てくるということは、井伏が太宰をいかに高く評価していたががうかがえるのです。
本作には、井伏鱒二にまつわるほのぼのとする逸話が数多く収められています。師・井伏鱒二と弟子・三浦哲郎に関心を持つ人ならば、必読の書と言えます。
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