バイブルの言葉
社会全体に広くみられる
人と比べることはあたりまえになっています。あの人は自分より収入が多いとか、少ないとか、地位が高いとか、低いとかです。比べて自分のだいたいの位置を知る程度ならいいのですが、それが優越感になったり、ねたみを抱いたりするようになります。
他の人たちを比較するというのも無意識によくしていることです。親が上の子と下の子を比較して、上の子はおとなしくて聞き分けがいいけど、下の子はうるさくて手に負えないなどと笑いながら話しています。子供が目の前にいるのにお構いなしです。その子は同じように父親と母親を比較するようになります。
学校でも競争がふつうにあります。テストの点数、走るタイムなどはあたりまえです。ルールを破った回数なども数えている教師がいるかもしれません。このような数字が生徒にとって励みになればいいですが、たいていは上下をつけることになり競争をあおっていきます。わたしの通っていた高校は進学校だったので、テストのたびに上位者の氏名と点数が張り出されていました。ご丁寧に各科目だけでなく、主要三科目、主要五科目と集計したものまでです。目的ははっきりしています。点数が上がれば名前が載るぞ、○○でもあれだけ取っているぞ。おまえならがんばればもっと取れるはずだ、と競争心を煽るのです。
これは社会に出てもありますね。獲得した契約数や売り上げなどが張り出されているのを見ることがあります。もちろん会社同士でも競争している訳ですが、個々の労働者もいくら売り上げているか、お金で比較されているのです。その最たるものが、オリンピックのような競技会でしょう。出場資格を得るだけでもかなりのレベルのはずですが、そんな高いレベルの選手たちが競うわけですから、期待されていてもメダルに到達しない選手たちの方が多くなります。その結果で手厳しい批判を浴びるのですから、メンタルがやられてしまいます。こう考えてみますと、競争することや比べることは今の社会全体に浸透していることがわかります。
結果はどうでしょうか。ねたみ、間違った優越感、過度のストレス、自尊心の欠如などを生み出しています。バイブルのことばからわかるように、これは人間本来の喜びにつながりません。
何が人間本来の喜びなのでしょうか
ガラテア6章全体を読むと「自分のまいたものが良いもの」であるなら、喜ぶことができます。たとえば、どんな仕事でもいいのですが、人よりたくさんの収入を得ることではなく、自分の収入で自分や家族が幸せに暮らせることの方が重要です。そして、少しでもそれで他の人の幸せに貢献出来たら、もっと幸せを感じられるではないでしょうか。これは数字で表せません。だから他の人と比べる必要がないのです。競争に勝っても、その喜びは一時的なものです。進学校で名前が張り出されても、それが本質的にはたいして人生の喜びにつながっていないことは私自身が経験したことです。自分にできた良いことで喜びましょう。
コメント