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ほのぼのする映画 ともだち (1974) 松田優作出演

親子で見てほしい映画「ともだち」

1974(昭和49)公開の児童向けの映画です。もう50年近くになるんですね。わたしは、本作が公開された頃は全く映画というものに関心がありませんでした。おそらく、夏休みのような長い休みの時に、たまたまNHKの教育テレビ(今のEテレ)で放送されたのを観たのでしょう。子供心に感動したことを覚えています。その後、ずっとこの映画のことは忘れていました。50歳近くになってふと、そう言えば小さい時に「ともだち」っていう映画を観たなあ、と記憶に蘇ってきました。そして、もう一度観たいと思ったのです。この児童向けの映画、子供に思いやりや優しさの大切さを教えています。親子で見てほしい作品です。

概要

監督 沢田幸弘
主演 阿部仁志 (松村新太) 1979年ドラマ「俺はあばれはっちゃく」に出演
出演 鈴木典子 (斎藤良子 よしこ) 芸歴としては本作のみの模様
   松田優作 (小松・新太の父がやっている仕出し屋で働いている) 当時24,5歳 
        デビューの翌年
   原田美枝子 (新太の姉) デビュー前に「勉強のために」出演 当時16
   下川辰平、牟田悌三、地井武男、など



あらすじ

新太は小学6年生、サッカーの選手になることを夢見ています。岩手から転校してきた良子の隣になりますが、とても嫌がっていました。良子は川崎に来てから気管支喘息になってしまい、それが原因で仲間外れにされています。新太は、そんな良子のともだちになってあげようと決意します。サッカーばかりしている新太ですが、「通知表で5を体育以外で2つ以上取ったら、何でも聞いてやる」という約束を両親から取り付けます。新太は猛勉強を開始し、良子を家に招いてもらおうとします。両親は新太の願いを知ると、風評を恐れ良子を家に呼ぶわけにはいかないと言い出します。親のあまりの理解のなさに新太は怒り狂います。しかし、新太の病気や良子の健気さが、少しずつ大人たちを変えていきます。新太はまだきれいな海を見たことがないという良子と夏休みに九十九里浜で泳ごうと約束します。良子はそれを楽しみにするが・・・

記憶に蘇った映画に再び出会う

この映画、映画館だけでなく、学校でも上映されたようです。1974年当時小学生だった人なら、学校で観たかもしれないです。ですが、その後DVD化もされず、徐々に忘れさられていました。と思いきや、松田優作が出演しているということで、2016年に「松田優作DVDマガジン」として講談社が発売。記憶にあったほのぼのとした映画がもう一度観られるようになったのです。わたしは、そのあたりのいきさつを知らず、たまたま検索していてヒット、即購入しました。現在は廃版になっているため、プレミアム価格になっています。



何がほのぼのするの

子供向けに作られている映画なので、変な暴力シーンやわいせつなシーンがなく安心して観られます。大人になって見返すと、新太の心情というのは、まぎれもなく恋心です。少年のそんなうぶな気持ちが、弱者に対する思いやりにつながっていく。これは大人になる過程で徐々にくすんでいくものなので、ああいう気持ちを忘れちゃいけないと言う意味で「ほのぼの」します。少年少女にとっては、理由はともあれ、弱いものをいじめる、仲間外れにするということが醜いことだということを伝えています。教育的と言えば、それまでですが、実は大人こそ、そういう大切な思いやりや優しさを忘れていることに気付かされます。

松田優作は新太の心のひだを読んでいた

新太の両親が経営する仕出し屋で働く松田優作(作中名は小松)。もちろん、脚本に沿って演じているのですが、彼の風貌に似合わぬ、ぶっきらぼうな優しさが光っています。たとえば、新太は頭に酸素を多く送ろうと逆立ちをしています。そうすれば成績がよくなるだろうと思ってしまったのです。松田優作はそんなことをしても意味がないことは分かっていますが、新太を励まそうと一緒に逆立ちをします。ちょっとしたシーンですが、新太が思い込んでいることをいきなり否定しない。むしろ、同じことをしてあげる。ただそれだけのことだけど、心のひだまで読んでいるかのようではありませんか。大人や親は子供に知識を教える前に、子供の心にあるものをまず知らないといけない。そんなことを教えられました。

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